「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」感想

私のとある友人は村上春樹に激怒した。

「なぜいつも終わりがはっきりしないのか!?」

 

村上春樹と言えば人々が中学高校の頃に一度はあこがれて通る道ではないだろうか。

かく言う私も激怒した友人もその道を通った一人で、彼女の場合は物語のはっきりしない終わり方に納得いかず本を地面にたたきつけたそうだ。

 

彼女のような批判意見も時々見受けられる中、私はどうも彼の作品が気に入っている。

それは“作者が物語を考えている”という感じがしないからだ。

村上春樹の小説の場合は“既に存在していた事実をそのまま文字に起こした”

という表現が適切といっていいような自然な話の流れで、その時々で登場人物はそうであるしかないというか正解のうちの正解のようなセリフしか吐かない。

 

言うまでもなく今回の物語もその例外ではなかった。

 

「多崎つくる」は主人公の名前だ。

彼は高校時代に男3人女2人計5人の親友グループに属していた。

高校卒業後、つくる以外の仲間は地元に残り、つくるだけが東京の大学に進学した。

数年間は帰省の度に5人で集まっていたがある時突然つくるはグループから追放されることになる。

訳が分からず人間不信と鬱になり一度死にかけたが何とか生き延びた彼は16年越しにガールフレンドに後押しされその謎を紐解くためにかつての仲間を訪ねていく、という内容だ。

 

訪ねていく中でつくるは冤罪を着せられていたことが分かり、かつての仲間のうちの一人は8年前に何者かによって殺されていた。

 

普通なら、殺された謎が解けて仲間は集まりハッピーエンドという終わり方であるはずだ。

しかし殺された理由も明かされなければ訪ね先での会話の内容もある程度の謎を残したまま物語は終わっていく。

 

私は思うに村上さん自身もその先の答えを知らないのではないか、村上春樹も、登場人物も誰も分からないから書かれていないのではないかと思う。

ここからはあくまで推測だが村上春樹は多分ある一点の時間軸の事実を思いつく、というか知り、そこから過去にさかのぼって本人たちが知り得る事実を埋めていっているのではないだろうか。少なくともこの話においては。

だから彼の作品は自然な感じ、作ったものではないという印象を与えるのではないかなと思う。

 

ところで生きていて日常的に希死念慮にとらわれることがあるという友人が私の周りにいる。

これは寂しいから、とか何が不満だからとかではなく、ただ自分がなかったものとして溶けて消えることができたらいいのに、という感情らしい。

 

人は自分の存在に対する自信が生きるうえでの軸として機能すると思っている。

私の場合だと「母だけは何があっても自分を裏切らない」

という確信が軸として働いている。

 

どんな人にも存在する価値はあると私は思っているが、様々な理由で自分の存在に対する心からの自信を持てない人は時として希死念慮を抱くことがある。

 

今回の話は多崎つくるにとっての軸として働いていたのは5人の存在だったのではないだろうかと思う。

その軸が何の前触れもなく折れた、というよりも消え去ったとき、人は混乱し「死ぬこと」を本気で考えるのかもしれないと思った。

幸せを知らない人が多くの人が不幸と呼ぶような状況で生きることより、幸せを知った人が突然不幸と呼ばれる状況に置かれたときのダメージの方が大きいのだろう。

前者においてでは「消えてもいいな」という感情が後者になると「死ぬべきである」になるのかもしれない。

 

人生というのは本当に人それぞれで何が恵まれていて何が不幸なのかを決めるのは自分の尺度だ。

周りから不幸のレッテルが張られた人でも自信が不満を感じていなければそれは悪いことではないと思う。

ただ、周りから成功者と言われるような人でも自信が満足していないという状況は前者より幸せと呼べるかと言われたらそうとは言えない。

やはり重要なのは自分の尺度だと思う。

 

まとまりに欠ける感想になったがこの本から日頃会話の内容にしないような人生について、いろんな人の人生観があるんだな、ということを知った。

かなり面白かった。